絵をかくはと

hinakichi
2021年10月25日

*『カラー版・創作えばなし3 絵をかくはと』 坪田理基男・作/ポプラ社1974年

 幼稚園から小学4年生くらいまで夕張郡の栗山町に住んでいた。小学2年生の時、小学校の図書室から「絵をかくはと」という絵本を借りて読んだのだが、それが物語に感動という経験をした初めての作品だった。(にもかかわらず)内容はうる覚えなのだが、戦争で亡くなった子供が鳩になって戻ってきて、路上に絵を描くという内容だったと思う。図書室に返却したあと、手元に置いておきたくて思い出して真似をし自分で冊子を作ったくらい魅かれた絵本だった。それから約10年程たった大学生時代。夏休みに実家の小樽に帰省した際、栗山町に小旅行を計画した。母校を訪ねもう一度記憶の中の絵本を読み、感動を確かめるためである。

 出発は期待でいっぱいだった。あの時の感動は確かなものであったのか。高速バスに乗り栗山町に到着した。思い出の地を一頻り歩いた。音がしない。しーんと静まり返って、人っ子一人いない。考えてみれば学校は授業中だし、大人はみな就業中だろう。それにしても車も一台たりともすれ違わない。これにはわくわくしていた心がすっかりしぼんで、ひどく物悲しい気持ちになってしまった。栗山とはこのように寂しい町であったろうか?記憶の中の、子供時代の遊んだ思い出の数々、それはもうあんなことやこんなこと、良いことも悪いことも含めて激動の日々だった。けれど実際は子供時代だって街中は変わらず静かなものだったのだろう。思い出って得てして寂しいもので、さらにそれが完全な過去として決別し、強調されてしまったのかもしれないな。

 小学校に到着し、職員室で事情を話すと図書室に案内してもらえた。目当ての絵本は無事に見つかり、記憶していたとおりの内容だった。町を降り立った時の寂しい感情が強烈すぎて、絵本はというと、内容の確認をしたという感じ。でも、この本は8歳の子供の心に確かに形を残したのだ。その後恥ずかしながら漫画家を目指し、挫絶後絵本を(時たまだが)描き続けている今も、実は絵以上に話で感動したいと思っているところがある。

 その後何年か経ち、何かの拍子に栗山町が絵本の町として活動をしていることを知る。(ただ、今検索で見る限りでは確認出来なかった。)その後日ハムの栗山監督が住み始めて知名度が急にアップ。町のHPをみると、現在なかなか頑張っている様子で嬉しくなった。